長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造


本木昌造肖像写真「諏訪神社蔵」

1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれた本木昌造。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳のときに、小通詞並になりました。彼は通詞としてまた、航海、造船、製鉄などといった各方面にも活躍の場を広げていきます。築町と浜の町に日本最初の鉄橋「くろがね橋」を作ったのも昌造です。※現在の橋には碑が立っています。

1848年、昌造が25歳の時、蘭書植字判および印刷機を通詞仲間と共同購入し、蘭書復刻を行ないます。1851年昌造28歳の時、オランダ活字を手本に独自の流し込み活字を製造しています。1855年に、昌造は官営の活版印刷所の創設を長崎奉行に上申し、活版判摺所を役所内に設けさせ自ら御用掛となります。これが後の出島印刷所。昌造はここでシーボルトの著作などの発行を手がけますが、この頃はまだ木版と流し込み活字の併用で美しい印刷とは呼べない物でした。より美しい印刷を求め、昌造は1869年アメリカ人宣教師フルベッキの紹介で、上海の聖教書印刷所・美華書館の代表ウイリアム・ガンブルを長崎に迎え、活版伝習所を設立します。昌造はガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる活字製造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功。その後、昌造は長崎市新町に日本初の民間活版業・新町活版所を創立し、さまざまな印刷を行なっていきます。その後大阪、東京、横浜と支所を設け大きく事業を展開していくことになります。