アルバスで行われた写真展のDMの為の組版。活版職人、寺尾さんの最後の仕事。文選は僕が。最初で最後のふたりの仕事。なので崩さずに今もそのままに。

アルバスで行われた写真展のDMの為の組版。活版職人、寺尾さん(故人)の最後の仕事。文選は僕が。崩さずに今もそのままに。気配をいつも感じる。

活版のルーツを辿って

 博多で活版所を営なまれていた寺尾さんから技術を教わり、道具を引き継いで早いもので5年の月日が流れようとしています。活版は今でこそ見直されていますが、これまでの職人さんたちは、苦労の連続でした。素晴らしい技術があり、そして工芸的な美しいものを生み出すにもかかわらず、消費社会というものに組み込まれてしまったが為に、短納期・低賃金かつ、どこか蔑まれてしまうという(かつて活版が、刑務所の刑務作業であった事もあるかもしれません)、本当に悔しい思いをされてきました。

 そういった話をたくさんの活版職人さんからお聞きする中で(それでも時折、垣間見える職人さんたちの矜持にはいつも感服を)、その方々の苦労を省いておいて、自分ばかり今の恩恵を受ける訳にはいかないなあと、自分のことはひとまず置いて、商業印刷は行わないことにしました。付加価値やファッションの文脈ではなく、文化として、営みとして、次の世代の人たちにもちゃんと伝え、引き継ぐことができるようにと、ルーツを辿り、個人的背景や文化的背景と向き合い、未来に残す活動に軸足を置くことにしました。これまで時間がかかっていますし、これからもかかると思います。

1591 年に「サントスの御作業の内抜書」(日本で最初の活版印刷)が刷られた聖地、加津佐。

1591 年に「サントスの御作業の内抜書」(日本で最初の活版印刷)が刷られた聖地、加津佐。加津佐図書館にはグーテンベルク式活版印刷機が設置されています

屋根のない印刷博物館

 活版印刷発祥の地、長崎。その長崎で活版印刷は二度、始まっています。最初は1591年。天正遣欧少年使節がヨーロッパから活版印刷機を持ち帰って、南島原の加津佐町で後にキリシタン版と呼ばれる書物を印刷したとき。そしてもう一度は、キリシタン弾圧から200年以上経った明治に本木昌造が活版印刷の事業化に成功したとき(初めて鋳造活字の製造に成功したのは薩摩藩の木村嘉平である事を補足しておきます)。キリスト教と本木昌造。そのふたつの源流が不思議と交わることなく今も長崎のまちに流れています。あまり知られていませんが、活版に関する多くの史跡や書物が長崎県内各地に点在していて、さながら長崎のまちは屋根のない印刷博物館のようです。

本木昌造によって作られたと言われる、日本初の鋳造活字の父型ともいえる柘植の木で作られた種字(長崎歴史文化博物館蔵)

本木昌造によって作られたと言われる、柘植の木で作られた種字(長崎歴史文化博物館蔵)

あるべき場所にあり続けるために

 物事をより深く知りたいとき、ルーツを辿ろうとしたとき、何かに敬服するときなど、あるべきものがそこにあり続けると言うことはとても本質的なことだと感じます。福岡から長崎に通いながら行政の方々にその重要性を繰り返し伝えているものの、一定の理解は頂けながらもそこどまり。なので、地域の人たちには誇りを、外の人たちには関心をと、まちの気分を作るべく微力ながら展覧会を開いたり、ワークショップを行ったり、地域のイベントに登壇したり、小学校に授業に行ったりと継続的に、活版の取り組みを行ってきました。もう少し見識を広めたいと思い、活版を活かしたまちづくりを行っているボローニャのレタープレススタジオへも行ったりしました。この2~3年、活版は大切な文化なんだと関心を持たれる人が増えてきたことを実感しています。先日は、そんな活版のふるさとを訪ねに東京で活版を行われているご夫婦がいらっしゃったので、アテンドしました(うれしい出会いでした)。そして昨年秋には、どうやって次の世代の人たちの残すか、たくさんの人たちと考え共有できる場が作れればとトーク「活版印刷をつなぐ」を企画しました。

sinnkosha

晋弘舎活版印刷所

活版印刷のある風景

 声をかけたのは、長崎、五島列島北部の美しい自然に抱かれた小値賀(おぢか)島で100年つづく、島の活版所「晋弘舎活版印刷所」の4代目の横山桃子さん。小値賀島では、晋弘舎によって年賀状や冠婚葬祭はもとより、船の切符など現在も活版印刷が島の暮らしに息づいています。そんな営みとして、島の文化としての活版をたくさんの人に直に聞いて欲しいと思いました。桃子さんとの出会いは数年前、まだ箱崎にアトリエを構えていた頃、ふいに訪ねてくれました。小値賀島特産の落花生をお土産に。初対面なのに開口一番、組版の話になったのは懐かしい思い出です。まだ正式に4代目になっていませんでしたが、子どもの頃からの原風景としての活版所があるのは何より心強いなあと思い、杞憂することなく心からのエールを送りました。

小値賀島のこと、活版のことを語る横山さんと僕

小値賀島のこと、活版のことを語る横山さん

小値賀あっての活版
 
 当日のトークは出島にある現存する日本最古の神学校で行いました。活版印刷が初めて行われたのも神学校。同じ建物ではありませんが、同じ空気をまとう場で行えたのはとても意義深いことでした。横山さんは冒頭、というかその多くの時間を小値賀島の魅力について語ることに費やしました。小値賀の海の青さ、小値賀の魚の美味しさ、小値賀の人の温かさ、ほがらかさなど、とにかく大好きな小値賀のことを。これほど郷土愛に溢れた人を僕は他に知りません。島を知ってもらう、島を好きになってもらう、その為に活版でできることなら。名刺や結婚式、子どもの誕生、島の人たちの暮らしに、一生に寄り添うことができたら。そのまっすぐな姿に会場は、得も言えぬ温かい空気に包まれていました。彼女の印刷物にはインクの滲みや圧などの表面的なものだけではなく、豊かな小値賀の風景を感じます。心に届く手紙のようです。

連絡船の切符

連絡船の切符

その船を見送る島の人たち。あれ?何か違いますね。笑。

その船を見送る島の人たち。あれ?何か違いますね。笑。ほがらかな小値賀の人たちのほんの一面。

活版をつなぐ、活版でつなぐ

 当日は長崎はもとより福岡、大分、熊本、鹿児島、東京などから、たくさんの人に足を運んでいただきました。改めて御礼申し上げます。トークは終盤、来場者の方たちとの対話になりました。その中で涙される方もいらっしゃいました。聞けば、実家が活版所だったとのこと。どうやったら残すことができたか。抗うことができたか。これまでも同じような話をたくさん聞いていたこともあり、思わずもらい泣きを。往々にしてまちの活版所は活字の貸し借りはあれど、横のつながりは希薄なものでした。ひっそりと今日も何処かで活版所の灯火が消えているかもしれません。そういった意味でも今回のトークは新しいネットワークが生まれる有意義なものになりました。奇しくも今年は本木昌造の没後140年、キリスト教徒の信徒発見150年とふたつの源流が交わる節目の年。9月は毎年、全国で本木さんを偲ぶ「印刷の月」でもあります。その9月を中心にこれまで点在していた活版を、印刷祭のようなイメージでつないでみたいと思います。ぜひ、足を運んで頂ければと思います(進捗状況は随時お知らせします)。そして、それが活版を次の世代の人たちにもつなぐことにも、ささやかながら繋がればとも思っています。