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とある美術館にコミュニケーションデザインで関わることになりました。たくさんの人に足を運んでもらうのは大事ですが、これまであまり興味のなかった人にも、新しい気づきだったり、喧噪な自分の外の世界と、内との世界の呼応と調和がとれる時間(場所)になればな、と思っています。そんなことをぼんやりと考えていると、長田弘さんの詩集に、とても共感する詩を見つけました。美術館に関わる方々から、常設展の良さを教えてもらってからは、好んで常設展を観るように。旧友に会いにいくような、過去の自分に会いに行くような、とてもゆったりとした時間を過ごしています。




美術館へゆく|長田弘

倉敷へ、エル・グレコの、長い顔をした人の絵を見るためにゆく。東京や八重州へ、ブールデルの、黒い小さな彫刻を見るためにゆく。

画集やカタログでながめるのではなく、絵そのもの、彫刻そのものを見るには、その絵を見に、その彫刻を、“そこ”へ見にゆかなければならない。

絵を見るということ、彫刻を見るということは、日々のいつもの時間のなかからぬけだして、絵を見にゆく、彫刻を見にゆく、“そこ”へ見にゆく、ということだ。

絵を見に、彫刻を見にいって、絵の前に立ち止まり、彫刻の前に足をとめる。黙る。見る。絵を、彫刻を前にして、できることはそれだけだ。
 
けれども、ただそうしているだけで、気がつくと、いつのまにか澄んだ川が無言の空を映すように、無言の絵、無言の彫刻を映して、じぶんの気持ちが澄んでいる。
 
札幌へ、三岸好太郎の、砂浜や貝殻や蝶の絵を見るためにゆきたい。福島へ、関根正二の、朱色の風景のなかに佇む姉弟の絵を見にゆきたい。丸亀へ、猪熊弦一郎の、どこまでも透明なうつくしい虹の絵を見にゆきたい。福岡へ、高島野十郎の、闇に揺れ動く蝋燭の炎の絵を見にゆきたい。
 
たまらなく美術館へゆきたくなるときがある。そして、美術館へゆき、見たかった絵や彫刻の前に立つと、ふだんはすっかり忘れている小さな真実に気づく。
 
わたしたちの時間というものは、本来は、こんなにもゆっくりとして、すこしも気忙しいものでなく、どこか慕わしい、穏やかなものだったのだ、ということに。