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僕たちが暮らしているまちには大きな図書館があります。家に収まりきらない本棚がたくさん並んでいる“離れの書庫”と想像すると愉悦を感じます。興味のある本のすぐ隣に知らない世界があって、学びの横断ができます。その“本棚”から数冊抜き出し、てくてくと家路の途中で見上げる空はいつも初めて見る色をしています。

僕たちが暮らしているまちには、博多駅や福岡空港まで向かう駅がすぐ近くにあります。最近は頻繁に遠いまちに行くことが増え、とても助かっています。着いた駅から離れた場所に行く時には自転車を分解して抱えて持っていきます。車の免許を持っていないのは、もっと遠い北で暮らすナヌーク(ホッキョクグマ)たちとの約束のようなものです。金曜日の夜にはレイトショーをひとりで観に行っています。映画が印象に残らないときもありますが、週の終わりに映画を観るというその時間そのものが好きだったりします。

僕たちが暮らしているまちには、海があります。そこで思案に耽ったり、何も考えずに凪いだ海をぼんやりと眺めたり。今は渡り鳥の季節です。日が沈みかけて、闇から逃れるように一列になって飛び去っていくさまに、いつも心を奪われます。最近は、我が子も鳥たちを見ては指を指すようになりました。

でも、ちょっと。土が足りない。

なら、もっと自然溢れる場所で暮らそう。と妻と熟慮しましたがいろいろと鑑み現実的ではないという結論に。だったら、僕らが森にでかけよう。まちの恩恵を受けながら、ときどき森に入って子育てをしよう、と。

写真絵本「イエペは ぼうしが だいすき」の 石亀泰郎さんの「さあ森のようちえんへ 小鳥も虫も枯れ枝もみんな友だち」は夫婦共に好きな一冊です。森で過ごす時間は自然との関わりを感じ、身体的な発達を促すでしょう(僕たちにとってはクリエイティビティの支えに)。ただ、保育的な観点から見ると子どもは“できない人”、“教えられる人”となってしまいがちです。なのでそうではなく、子どもの可能性を信じ、創造的活動を通じて共に学び合う関係も作れると良いなと。

創造的活動と言えば、過去に北イタリアのまち、レッジョ・エミリアで行われている教育実践「レッジョエミリア・アプローチ」の展覧会のデザインをしました。その時に蒔かれた種子は、僕の中でやわらかく、しなやかに育っています。そこで、森を僕たちのもうひとつのアトリエに見立てて、レッジョエミリア・アプローチ的な子どもの感受性、創造性を育む時間を意識的に作っていくことにしました(木に触れる一日なので木曜日に)。

我が子の自己が認識されていく途上の自律性や自発的活動を分かち合えるように、学びあえるように、僕たちは親であると同時にアトリエリスタ(アートを通して子どもたちにいろんな発想を提案していく他者)にもなろうと。森の中での芸術体験は、事実的なことと空想的なこと、そのふたつの間を行ったり来たりしながら感受性を育み、我が子が「僕」という存在を強く意識していくことにつながるでしょう。

さあ、「森のアトリエ フンギ」の始まりです。

※フンギ=イタリア語できのこ
枯葉(葉っぱ)は、もっとも身近で最良な創造力を促す道具。葉脈はまちの道、もしくは想い出。

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そうなると、落ち葉は記憶の積層。まちの歴史

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一人が好きな、でもほんとは淋しがり屋の黄緑。

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野葡萄による色彩論

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森を見上げればまちの灯り。幹は川に。

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