妻がふいに「美術館に行きたい」と。妻のそういう衝動的で直感的なものは、いつも嬉しく。それがずっと記憶に残るような展覧会だったのでさらに嬉しく。加えて家事に育児にいつも家なので、何も気にせず思いのままの時間を過ごして欲しいと、長崎行きの列車の切符をさっと渡した。 「青いという言葉は、ただ口にしてみるだけでも、美しいものです」。と、展覧会のキャプションを想い出しながら、久しぶりに僕と凪と二人だけでいつもの海で日中を過ごした。帰福した妻は得もいえぬ、でもとても満たされた表情をしていた。僕も10年後、20年後とふと想い出すような深く味わった展覧会だった。「ソフィ・カル 最後のとき/最初のとき」展。
そのソフィ・カル展の記憶も新しいまま、目の見える人と見えない人とのプロジェクトが始まることになり、長崎へ。 以前、聴覚障害者の方たちが働く木工所に伺ったとき、工具の大きな音の中、皆さんは手話でコミュニケーションをとっていた。気づけば、僕だけが“聴こえない人”になっていた。障害というものは個人にあるものではなく、社会(ひとの世)の方にあることを感じた瞬間だった。見えない人の中に入ることで、これまで見えなかったものが見えてくるかもしれない。
先天性のものよりも現在は中途の視覚障害者の方が多く、視覚障害者の点字の識字率は1割程度と思いのほか低いことを聞いていた(反面、デバイスの普及で“音”で暮らしを)。それでも、触れる(触れ合う)デザインついて考えていて、それを提案した。視覚障害者のSさんは、「新しい風が吹いたようです」と。風は見えないけど、感じることができる。そして何より気持ちを軽やかにしてくれる。Sさんの口から“風”という言葉を聞けたのがたまらなく嬉しかった。点字シートを眺めながら僕は、「この点字は、文字であるけれど、雨粒のような、雪のような、長崎の夜景のような美しさがありますよね」と。するとSさんは、「実は、この点字シートをつくるボランティアの会は“雨だれの会”って言うんですよと」と教えてくださった。雨粒が垂れるように、文字(点字)を打っていく。なんと、素敵な名前だろう。多すぎる雨は勘弁して欲しいと思うけれど、静かな雨は寄り添ってくれる。まだ続きそうな雨の季節。傘をさし、雨音に耳を傾けながら思案を続けていく。