きおく×キロク

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“記憶は、過去のものではない。それはすでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌になってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子を捲いて、季節の中で手をかけて育てることができなければ、ことばはなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭に育っていくものが、人生とよばれるものなのだと思う”。詩人の長田弘さんの『記憶のつくり方』より


たまに思い出し、噛み締めるように味わう言葉です。写真は、10年以上前にデザインした福岡県立美術館(ケンビ)のリーフレット。誰かの為に作ったものが気付けば自分の土壌ともなって、記憶になり、記録にもなっています。まだ駆け出しの頃、美術館に足が遠い人こそ、美術館という場を必要としているかもしれない。気分を高揚するだけではなく、慰めたり、解したり、魂をさすってくれるような場にもなるのかもしれない。じゃあ、美術館が“届いていないのなら”、ここにいるよと手を振りたい。と、頼まれてもいないのに勝手にリーフレットをデザインして、学芸員の竹口さんに見てもらいました。竹口さんがその想いに応えて下さり、正式にデザインすることになり、このようなリーフレットが生まれました。竹口さんとそれを作りあげるまでの時間というものは、アートを知らなければデザインも知らない僕にとって至上のレッスンで、今想っても僕が人生で携えている数少ない宝石のひとつです。時が流れ、多少なりともデザインができるようになった今、当時の拙さや未熟さがとても愛しく思えます。この仕事があるおかげで、僕は今もデザインの世界で(一番外の輪郭付近)で流されることなく、自分の速度で歩み続けていられるのかもしれません。そんな自分の思い出を思い出さずにはいられなかった、福岡県美術館での展覧会「とっとっと? きおく×キロク=」。チラシにはこんな言葉が綴られています。


あなたが大切にとっている思い出はどんな思い出ですか?それは写真や映像にうつっていますか?あるいは心のなかに残っていますか?いまは思い出さなくても、いつかふっと再生されるものもあるかもしれません。なかには思い出したくないものもあるでしょう。思い出は過去のものですが、わたしたちはいつも思い出とともに歩いています。急がず、ゆっくりと、どこまでも歩いていけることを願って、この展覧会をひらきます


50周年を迎えた福岡県美術館(福岡県文化会館)の記憶や記録を展示する第一部「思い出の文化会館」。ケンビの収蔵品の中から記憶と記録を題に選定されたものと、地元福岡を中心に活躍中の若手作家6名の作品を展示する第二部「まざりあうわたし」。そして、「東北記録映画三部作」や出品作家さんたちによるトークなどで構成された第三部「ともに歩いていくために」。今回の企画には竹口さんの明らかな意志を感じました。攻めているなあと。美術館という言わば誰かが表現したもの(見えるもの)を鑑賞する場で、おぼろげで、あやふやで、でもやわらかい「記憶」という形もなければ見えないものを展示するなんて。でも記憶というものは誰しもが持っている大切なものでもあって。すなわち美術館というものが、美術に興味がある人たちだけでなくて、誰のものでもあるんですよ。という竹口さんがずっと抱えていた想いのひとつの結実だと感じました。それは決して大声ではないけれど、どこまでも(未来にも)届くような澄んだ声でした。その声は展示会場にも(控えめだけど力強く)。展示会場には作品を説明するキャプションがありませんでした。でも、作品と作品とをつなぐように「言葉」がありました。それは本のページの下に付いているノンブルなようなもので、自分が今、どこにいるのかを教えてくれます。それは時に寄り添い、時に問いかけるもので、鑑賞者の心の有り様で、先(未来)にも進めば、前(過去)にも戻れるものでした。展覧会は絵画を鑑賞したというよりは、思い出をテーマにした短編集を読んだような印象でした。ずっと浸っていたい読了感のようなものが今も残っています。

期間中は「東北記録映画三部作」の上映や、映画のプロデューサーである相澤さんを交えての観覧者同士の対話、九大の田北さんを迎えての思い出(記憶)トークと、来場者同士の記憶を渡し合うワークショップもありました。この記憶を携えてまた、次の場所へと歩んで行けたらと思います。このような展覧会が自分が暮らす町で開かれたこと、本当に嬉しく思います。会期は明日まで。クロージングトークも開かれるそうです。福岡で紡がれる、きおくとキロクにぜひ触れてみて下さい。