ランドナーをつくる(2)

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今、乗っているランドナーはある意味、ユニバーサルデザインの自転車です。交通事故の後遺障害でドロップハンドルに備え付けられたブレーキを物理的に握ることができなくなりました。障害者申請を行っていないので、障害者でもなければ健常者でもないのですが実感として「障害」は“持つ”ものではなくて、むしろ“持たない(持てない)”ものであると感じるようになりました。その“持たない(持てない)”という身体的な負担を補うために、おじさんは2本の指だけでブレーキを掛けることができるようにデザインして下さいました。ユニバーサルデザインの自転車のパーツもたくさん出ているのですが、どれも“一般的”すぎてそういった新しいものを使わず、古いパーツで美観を損なわずに作って下さいました。新しいランドナーも、微妙なブレーキの場所を何度も調整しながら作ってもらっています。そう思うと、ユニバーサルデザインの小さな矛盾に気付きます。

行政の仕事をしているときも必ずと言っていいほど、「ユニバーサルデザインに配慮した〜」と言われます。けれども、ユニバーサルデザインの為に不特定多数の人たちに寄り添う程、そこからこぼれる人たちが必ず出てきます。言わずもがな、障害や置かれた状況は、人それぞれとても多様なものです。その設えられたユニバーサルデザインから、こぼれ落ちた人たちほど実は本当の意味でのユニバーサルデザインを必要としているという矛盾を孕んでいる気がしています。そう思うと行政はユニバーサルデザインの普及ではなく、まずは相互扶助への理解やアクセシビリティの向上を努めるべきなんじゃないのかなとも感じます。自分としては、ユニバーサルデザインの視点を持ちつつも、ダイバーシティであったりインクルージョンなどの、より具体的なところに眼差しと軸足を置いていたいなと思います。

ランドナーをつくる(1)

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車の免許を持っていないので市内と市近郊の移動はランドナー(自転車)です。普段、どれくらい乗っているのかなと走行距離を測ってみると、ランドネ(長距離サイクリング)を省いて、西へ東へほぼ毎日約20kmでした(競技車ではないので、のんびりですが)。環境にやさしいと言うよりは、光や風や風景を感じたり、気持ちを切り替えたり、アイデアを考えたりと自分にとっては心を通わす人の気配がする道具です。なので手入れもしていますが、やはり毎日乗っていると気がつかないうちに傷が増え劣化も激しくなります。自分で出来る範囲はメンテナンスを行い、できないときは修理をお願いしています。年代物のパーツを使っていることもあり、修理にもそれなりの費用がかかってしまいます。初めてのランドナーでずっと乗り続けたいこともあり、併用で乗れるようにと思い切ってオーダーメイドで自転車をつくることにしました。

ランドナーやスポルティーフに乗る人は誰しもが憧れる日本が世界に誇る『東叡社』のフレーム。一生物になるので緊張しながら『長住サイクル』のおじさんに相談しました。すると、「東叡はお金を出せば誰でも作れるけん、いつか作りんしゃい」とあっさり。そして奥から見慣れないフレームを出して下さいました。おじさんがお店を出された頃(40年以上前)に手に入れられた今はなき「ワンダーフォーゲル号」、フレームには「randonnee」と。長住サイクルは子どもの頃の僕らの溜まり場のような場所で、その頃すでにこのフレームはここにあったんだと思うと感慨深くなり、東叡社への憧れは何処かへ。そしてフレームに自分の手の長さと股下を合わせると、ぴったり。「このフレームはずっと、乗ってくれる人ば待っとったとよ。おじちゃんも技術ば磨きながらいつか作ってみたかあとフレームに合うパーツを少しづつ、少しづつ集めとったとよ。決まりやね」と、このフレームをベースに当時のパーツをアッセンブルしての自転車づくりがはじまりました。

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きずな

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久しぶりにファミリーシップふくおか(里親養育支援共働事業)のフォーラム「新しい絆」へ。全国的に見ても突出している福岡の里親委託率を表す様に予備の椅子が出されるほど会場は満員でした。委託率が増えるということはそれだけ普及活動が浸透していることを意味する訳で、改めてファミリーシップふくおかの取り組みに感嘆するとともに、より一層の普及が進むことで、本当の意味で福岡のまちは子どもたちにとってやさしいまちになっていく可能性を感じました。

メインゲストは帝塚山大学の才村眞理教授。「子どもとライフストーリーを分かち合う」として、出自を知る権利(子どもの権利条約を元に)や子どもの自尊心やレジリエンヌ(回復力)などの話を。続いて、誰から生まれたのか?なぜここにいるのか?などを子どもの人生に組み入れるプロセスである「ライフストーリーワーク」と、生い立ちの記録や写真などの記録を整理し記入するアルバムの「ライフストーリーブック」について。これはレッジョのドキュメンテーションとエピソード記述などの保育的観点から見ると情報に乏しいものの、子どもの尊厳から見るとより深い(強い)ものであるような印象を受けました。現代から過去、そして再び現代から未来とへと子どもの反応を見ながら“点滴”のように少しづつ告知していくことで、子どもが理解・納得し未来に生きる力を得ると。

里親さんたちのお話も。里親さんの話を伺うのはalbusでのイベント以来でした。愛を知らない子ども達が愛を感じるまで、里親さんたちは、どれほどの愛を注がれたのだろうと今回も胸を打たれました。血縁より強い絆があることを改めて知りました。前述の才村教授が里親さんたちの話の感想で「多様性に強い社会を作る上で、子ども達の力を信じる最先端にいるのが“里親”」と仰られ、ハッと膝を打ちました。

児童養護施設の藤田施設長による講演も行われました。施設の成り立ちから社会的養護が施設養護から家庭的養護へと移って行く過渡期である施設の現状とこれからを。そして、いくつ夜があっても語り尽くせないと仰るなか、施設で暮らす数人の子ども達のエピソードも。藤田さんには私自身、多くを与えて頂きました。自分のデザインの職能が集客や消費の為ではなく、まずデザインから“遠い場所”にいる人たちの役に立てたいと思う様になったのは藤田さんとの出会いからです。藤田さんは繰り返し、子どもは未来であると同時に今だと仰られます。施設に足を運ぶ中で他にもたくさん、子ども達の困難な話を伺いました。話を聞きながらその想像しがたい現場を想像する訳ですが、藤田さんはいつも子どもの、上でも下でも前でも後ろでもなく、となりにいます。いつも子どもと同じ景色を見ているのです。

何をしてきたかでその人の輪郭をつかめることもあれば、何をしてこなかったでその人を知ることもあるのかもしれません。その“してこなかった”時間の中には、藤田さんが目の前の子どもたちと向き合い続けてきた時間が確かに存在しています。久しぶりに話を伺い、自分もそうありたいと感じました。

FAFサロンを終えて

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昨日のFAF(福岡建築ファウンデーション)サロン、急に冷え込んだ中、足をお運び下さった皆様、ありがとうございました。FAFサロンはこれまでテーマを「○○○のひみつ」とされてきました。ですので、今回「ソーシャルデザインのひみつ」となりました。メディアや書籍等で伝えられる「社会の課題をアイデアで解決!」とある種、わかりやすいソーシャルデザインもあれば、私が行うデザインのように、見えにくく気付かれにくいものもまた、ソーシャルデザインなのかな、と感じています。そして、自分が想うソーシャルデザインは、やっぱり「社会」という掴みにくく大きなものではなく(“世間”と言う言葉の方がしっくりきます)、目の前のひとりひとりの個人に向き合うことなのかなと感じています。現実は変わらずそこにあります。ですのでそれをお伝えできればと普段、SNSやブログなどでは伝えない少し重い内容になったかと思いますが、直接お話できたこと有り難く思います。少しでも何か感じて頂けていたら嬉しいです。

とある方からその困難な状況化の人たちの怒りや悲しみをダイレクトに表現するクリエイティブもあるんじゃないかと聞かれました。確かにそういう表現もあるなと、ハッとしました。ですが、私はやっぱり、あたたかくてやさしいものが良いなと。怒りや悲しみ、憂いさまざまな感情を受け止めて、やさしく、あたたかく届け続けたいと思います。また、その困難な状況化の中にいる人たちに私のデザインが果たして意味を成しているのかと、そのような質問も頂きました。確かにそうかもしれません。山火事をバケツの水で消すような行為かもしれませんが、自分の中で最良と思うことを行い続ければと思っています。他にもいくつも有り難い質問や感想を頂きました。自分の中でゆっくりと咀嚼しながら行動に移して行ければと思います。今回、このような機会を与えて頂き、本当にありがとうございました。

FAFは、『福岡の街を、デザインを育てる土壌として耕すこと』のミッションの元、福岡近現代建築ツアーやワークショップなど、さまざま取り組みを行われています。ぜひ引き続き、Webサイトなどご覧下さい。

NPO法人福岡建築ファウンデーション|http://fafnpo.jp/

大切なもの

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週末は、命日で春を思わせるほがらかな日和の中、妻と想い出の場所をゆっくりと巡りました。あの日も同じ様な暖かい日でした。澄んだ青空に飛行機雲のようなきれいな線を描いて消えて行きました。ハクモクレンの暖かそうなつぼみと、白い梅の清々しい香りが悲しみを和らげ、笑みをもたらせてくれました。

久しぶりにふたりで訪れた長丘、長住は変わっていないようで、でもやっぱりどこか変わっていました。もうここは僕らの場所じゃないんだなと思いながらも淋しさではなく、随分と大切なものに包まれて暮らしていたんだなと気づき、温かい気持ちになりました。




わたし(たち)にとって大切なもの | 長田 弘『死者の贈り物』より



何でもないもの。朝、窓を開けるときの、一瞬の感情。熱いコーヒーを啜るとき、不意に胸の中にひろがってくるもの。大好きな古い木の椅子。

なにげないもの。水光る川。欅の並木の長い坂。少女たちのおしゃべり。路地の真ん中に座っている猫。

ささやかなもの。ペチュニア。ペゴニア。クレマチス。土をつくる。水をやる。季節がめぐる。それだけのことだけれども、そこにあるのは、うつくしい時間だ。

なくしたくないもの。草の匂い。樹の影。遠くの友人。八百屋の店先の、柑橘類のつややかさ。冬は、いみじく寒き。夏は、世に知らず暑き。

ひと知れぬもの。自然とは異なったしかたで人間は、存在するのではないのだ。どんなだろうと、人生を受け入れる。そのひと知れぬ掟が、人生のすべてだ。

いまはないもの。逝ったジャズメンが遺したジャズ。みんな若くて、あまりに純粋だった。みんな次々に逝った。あまりに多くのことをぜんぶ、一度に語ろうとして。

さりげないもの。さりげない孤独。さりげない持続。くつろぐこと。くつろぎをたもつこと。そして自分自身と言葉を交わすこと。一人の人間のなかには、すべての人間がいる。

ありふれたもの。波の引いてゆく磯。遠く近く、鳥たちの声。何一つ、隠されていない。海からの光が、祝福のようだ。

なくてはならないもの。何でもないもの。なにげないもの。ささやかなもの。なくしたくないもの。ひと知れぬもの。いまはないもの。さりげないもの。ありふれたもの。

もっとも平凡なもの。平凡であることを恐れてはいけない。わたし(たち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ。明日の朝、ラッパは鳴らない。深呼吸しろ。一日がまた、静かにはじまる。