大切なもの

IMG_7841-2

週末は、命日で春を思わせるほがらかな日和の中、妻と想い出の場所をゆっくりと巡りました。あの日も同じ様な暖かい日でした。澄んだ青空に飛行機雲のようなきれいな線を描いて消えて行きました。ハクモクレンの暖かそうなつぼみと、白い梅の清々しい香りが悲しみを和らげ、笑みをもたらせてくれました。

久しぶりにふたりで訪れた長丘、長住は変わっていないようで、でもやっぱりどこか変わっていました。もうここは僕らの場所じゃないんだなと思いながらも淋しさではなく、随分と大切なものに包まれて暮らしていたんだなと気づき、温かい気持ちになりました。




わたし(たち)にとって大切なもの | 長田 弘『死者の贈り物』より



何でもないもの。朝、窓を開けるときの、一瞬の感情。熱いコーヒーを啜るとき、不意に胸の中にひろがってくるもの。大好きな古い木の椅子。

なにげないもの。水光る川。欅の並木の長い坂。少女たちのおしゃべり。路地の真ん中に座っている猫。

ささやかなもの。ペチュニア。ペゴニア。クレマチス。土をつくる。水をやる。季節がめぐる。それだけのことだけれども、そこにあるのは、うつくしい時間だ。

なくしたくないもの。草の匂い。樹の影。遠くの友人。八百屋の店先の、柑橘類のつややかさ。冬は、いみじく寒き。夏は、世に知らず暑き。

ひと知れぬもの。自然とは異なったしかたで人間は、存在するのではないのだ。どんなだろうと、人生を受け入れる。そのひと知れぬ掟が、人生のすべてだ。

いまはないもの。逝ったジャズメンが遺したジャズ。みんな若くて、あまりに純粋だった。みんな次々に逝った。あまりに多くのことをぜんぶ、一度に語ろうとして。

さりげないもの。さりげない孤独。さりげない持続。くつろぐこと。くつろぎをたもつこと。そして自分自身と言葉を交わすこと。一人の人間のなかには、すべての人間がいる。

ありふれたもの。波の引いてゆく磯。遠く近く、鳥たちの声。何一つ、隠されていない。海からの光が、祝福のようだ。

なくてはならないもの。何でもないもの。なにげないもの。ささやかなもの。なくしたくないもの。ひと知れぬもの。いまはないもの。さりげないもの。ありふれたもの。

もっとも平凡なもの。平凡であることを恐れてはいけない。わたし(たち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ。明日の朝、ラッパは鳴らない。深呼吸しろ。一日がまた、静かにはじまる。