くらしに息づく活字と印刷

写真は活字の鋳造機。このゴリアテの如き巨躯から生まれ出るのは、米粒ほどの活字。その灯火も消えようとしている。けれども、活字を愛する者として、自分はダビデになってはならない。と、思案と行動を重ねる上で、吉報が届く。貴重な活版印刷の書物の掲載許可が下りた。まちに活かしたいと、何年も交渉を重ねて、ようやく。でも、不思議な感情で、すぐに許可が下りなかったことに、どこか、ほっとしていた。そう、僕が足を踏み入れたのは、昨日今日の世界ではないので、矛盾しているかもしれないけれど、簡単には許可が下りなくて(下りない方が)いいと、心のどこかで思っていた。それは、何かを伝えることにとって必然的な時間だった。

と、言う訳で「くらしに息づく活字と印刷(仮)」の本づくりに、着手。長崎は活版のはじまりの地だけではなく、写真のはじまりの地でもある。その長崎のまちに根を張り、写真とフィルムカメラのことを伝え続けてきた、cariocaさんと言う女性がいる。彼女が写真を撮る行為は営みであると同時に、長崎のまちの財産だと思っている。例をあげればきりがないが、カメラのフォーカスという写真屋さんのリニューアルにかかわり、見事に「まちの写真屋」として生まれ変わらせた。その行為はクリエイティブそのもので、もっと評価されて然るべきだと感じている。だが、人からの評価などさほど気にせず、ただ、ひたすらに近くの人の為に、愛する長崎のまちのためにという生き方が、何とも彼女らしいし、そんな彼女を敬愛してやまない。だから、長崎での写真はフィルムカメラで撮ろうと思っている。



活版や石版に関しても、いまだ入口付近でうろうろしているに過ぎないので、これまで支えてこられた方々に敬意を払いながら、お力をお借りしながら、良いものができればと思う。ただ、急がねばならない。星野道夫さんがエスキモーの長老さんたちの話を集めたときのように、与えられた時間は、ごくわずか。「記憶」、「継承」、「伝承」など、そういった言葉が頭の中で、つむじ風となり、吹き続けている。