成島和紙

震災以降、おおげさなことではなくて、営為として東北とかかわり続けるにはどうしたら良いだろうかと考えていた。僕らの暮しや仕事には紙はかかせないもので、日本最北端の和紙の産地が岩手にあると知り、その工房を訪ねて来た。子どもの泣き相撲大会で全国的にも有名な花巻市東和町成島地区の、成島(なるしま)和紙。元々は南部藩の御用紙であり、岩手の人々の母なる川、北上川の支流である猿ヶ石川縁域に50軒程の工房が軒を連ねていたという。和紙づくりは寒い時期が適していることもあり、成島地区の農閑期の作業として盛んに行なわれていたそうだ。現在は、訪れた青木さんのところが最後の一軒になったそうで、やはり淋しさを感じてしまった。看板猫のミミーはそんなことを知る由もなく、何とものんびりしていた。

原料は成島産の楮を、粘剤にはノリウツギを用いており寒期の流し漉きの作業で一気に強くてしなやかな和紙を仕上げるそうだ。見せて頂いた和紙はどれも、東北の土を感じるような素朴さと逞しさがあった。流し漉きはどちらかと言うと薄い紙に適していると思っていたが、厚い紙にも強さがあったのは意外だった。また青木さんは、表現のために何かを混入させたり、染めを行なったり、漂白することなどを好まれていなかった。川を汚すことにもなるから、と。余計なことや負荷をかけないそのままの姿勢であったり、消費や流通が最優先でないのは僕らも大切にしていて、恐れ多くも心が重なった気がして嬉しくなった。大事に使っていきたいと思う。

花巻

賢治さんの故郷、新花巻駅で降り、賢治さんの足跡を辿りつつも観光地化された場所だけではなく、賢治さんが暮した普段の花巻を感じようと地図にない場所を歩いた。歩いた。歩いた。気がつけば随分と遠くまで歩いていて、さすがに焦り、地図を見た。どうやら山道に入ってしまったようで、所在がわからず、再び大きな道まで戻り、バス停もまず無さそうだったので、タクシーを呼ぶことにした。が、圏外…。それもそうだ。西日が差し始めたので、「あ、良かった。こっちであってる」と思いつつ、それは日暮れを意味していて、流石に冷汗が出て来て、焦燥感が身を覆った。「で、電話を借りよう」。にも、駆け込むような民家がなく、さらにしばらく歩いた。ようやく軒先で農作業をしているおじいさんを見つけたので、事の顛末を話した。するとおじいさんは、桑をかざしていた手を休め、「花巻駅まで送ってあげよう」と、思ってもいなかった言葉をかけて下さった。妻と顔を見合わせながら、そのご好意に甘えることにした。

三人がけのトラックに並び、花巻の町を案内してもらいながら、一路花巻駅まで。ガタンゴトンと揺れながら賢治さんのこと、震災のこと、三陸のこと、民家の形のこと、農業のこと、南部藩のことなど穏やかな岩手弁で話して下さった。風土にはやはり人も含まれるのだろう。東北がより身近に、より愛しくなっていく。「クーラー、壊れてて、すまんね」と、おじいさんが話すも、全開の窓から入ってくる花巻の風はこれ以上ない清々しさがあった。しばらく会話を続けていると、市街地に入ってきた。いつの間にか焦燥感は消え去り、まさに一期一会の切なさが込上げてきて、花巻駅が近づくほどに、もう少し駅が遠ければなどと、身勝手な感情が湧いてきた。だが、そうもいかず駅が見え始め、御礼を述べた。「また来ます」。それは偽りのない素直な気持ちだった。花巻駅に着きトラックを降り、深く頭を下げると、控えめなクラクションを一度ならし、おじいさんを乗せたトラックは、再び郊外へと帰って行った。

モリーオ

少し遅くなりましたが、盛岡市の「ひめくり」さんで開催された「手の間展」にお越し下さった皆様、本当にありがとうございました。さまざまな場所で話していますが、活版印刷にはじめて出逢ったのは、子どもの頃に読んだ賢治さんの「銀河鉄道の夜」でした。こうして、賢治さんの故郷である岩手に赴くことができたこと、活版印刷を通して岩手の方々と交流ができたこと、大変嬉しく思っております。また地元、岩手日報さんの取材も受けました。夫婦共々、取材は本当に苦手なのですが、遠く、福岡からも祈っていること、想っていることを知ってくださればとても嬉しいです。

盛岡は、「ポラーノの広場」の物語の中にある“あのイーハトーヴォのすきとおった風、 夏でも底に冷たさをもつ青いそら、 うつくしい森で飾られたモリーオ市”と、その通りの町でした。その情景に加え、町のいたるところに吊るされていた、涼しげで奥ゆかしい南部鉄の風鈴の音色が、今も耳に残っています。まちで暮らす人たちを見守るように、さまざまな場所で大きな木を見かけました。マンションよりも木のほうが背が高いのは、まちの風景としての美しさもさることながら、そこで暮らす人達が大切にしてきた積み重ねられた記憶や時間を感じることができ、とても穏やかな気持ちになりました。

賢治さんが名付け、生前「注文の多い料理店」の出版を行なった「光原社」も訪れました。得も言えぬ懐かしさと(様々な本で何度も見ていたので)、質実剛健な佇まいに、強い志を感じました。賢治さん自身も出版の為、活字を拾ったり、花巻から盛岡の山口活版所まで活字を探しに来たと言います。残念ながら活字を取り巻く現状は落日の勢いを増していますが、賢治さんの志には遠く及ばないにしても、自分にできることを行なおうと、賢治さんの像の前で小さく誓いました。

帰福

ただいまです。東北から帰ってきました。震災支援や震災孤児の現状など言葉では何となくわかっていても距離や温度差を感じていたので、直に感じたり、話を伺うことができて良かったです。また、震災後の社会や未来とのかかわりかたにおいて、市民ひとりひとりの志や力をとても感じました。

たくさん見て、聞いて、歩きました。さまざまな人と出逢いました。ひとりひとりが、借り物ではない自分の言葉を持った語り部でした。民間伝承の力強さと美しさ、たおやかさを感じ、「つたえる」、「つたえていく」ということのさまざまな示唆も与えて頂き、大きな経験となりました。思っていた通り、くらしや地域などのデザインに於いて、民俗学の援用はこれからますます必要とされていくことを肌で感じました。これからの日々のデザインに活かしていければと思います。

写真は盛岡市を流れる中津川。中心部だというのに、ウェーダーを着たおじいさんが、鮎釣りをしていました。春にはさまざまな花が咲き、秋には鮭が遡上し、冬には白鳥が舞い降りるそうです。美しい景色でした。季節毎、訪れたいものです。