Because who is perfect?

いつからか“ふつう”と言う言葉を使うことを躊躇するようになりました。なぜならそれは、これまで自分が当たり前と感じていた“ふつう”は違った視点ではまったく別の物だったという事を知ったからです。そして、いつからか“ふつう”と言う言葉を意識して使うようになりました。さまざまな環境の人たちとの境界のようなものを作っていたのは案外、自分だったかもしれないと思うようになったからです。後遺障害が残った後、ユングのWounded Healer(傷ついたヒーラー)と言う言葉を知りました。デザインと言う行為に癒しや緩和があるとするのならば、それもまた自分に与えられた役割のような気もしています。自分の“ふつう”じゃなく、誰かの“ふつう”を感じとれる想像力を育めればと。

さて、海外で話題になっている映像のご紹介を。煌びやかなクリスマスのショーウィンドウで多くの人が賑わうスイスのバーンホフ通りで、12月3日に制定されている国際障害者デーのプロモーションが行われました。行ったのは障がい者のQOL向上などをサポートする人権団体「Pro Infirmis」。数名の身体障がい者の協力を得て、彼らのプロポーションそのままのマネキンを作り、そのマネキンに服を着せショーウィンドウに飾りました。普段は“パーフェクト”なプロポーションのマネキンですから、行き交う人々はいつもと違う姿に戸惑いを見せます。けれども、「who is perfect?」と言うように完璧な人はいません。自分を取り巻く日常の中から意識が変わって行くことで、障がい者と健常者の間に境界は消え、同じ社会の中で共に暮らしているという事を実感できる。そんなメッセージが伝わりました。“障がい者が”と言う形容が外れたアプローチに次の可能性を感じます。

Made in Japan

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日本製のモノは私たち日本人だけではなく、世界中から愛されていることは皆さん知るところです。ですが、日本のモノづくりの現場は長引く不況で価格競争に巻き込まれたり、取引先から無理な工程、厳しい賃金を押さえつけられたりと、せっかく素晴しい技術はあるのに、職人さん達を養えなくなり、閉鎖せざる得ない小さな工場は後を絶ちません。なので、そこにデザイナーが加わり職人さんたちと恊働でモノをつくり、メーカーや卸などの中間業者を介さず、直接消費者が手にする販路を作ることで日本のモノづくりの技術を残していく。そういった取り組みはここ数年、よく耳にするようになりました。

今、自分が参画しているプロジェクトはそのデザイナーが海外の方、そして販路も海外という、ちょっと変わったプロジェクト。事の始まりは、とあるスイス人プロダクトデザイナーさんたちが日本製のモノに惹かれ、その日本製のモノを、そのままの空気でヨーロッパの人たちにも手にして欲しいと思ったところから。彼らのデザインは気を衒ったり華美なものでなく、とてもノーマルなのもの。だからこそ日本の技術の高さが伝わる秀逸なバランスだと感じています。これまでに福岡のいくつかのモノづくりの工場を一緒に訪ねてきました。コーディネートを行うRさんの尽力や、スイス人プロダクトデザイナーさん達の誠実さも重なり、いくつかの感動するエピソードを残しながらプロジェクトは一歩づつ着実に進んでいます。

私はプランニングやプロデュースを行うこともあり、デザインそのものよりも、それ以前の“立てて行くこと”や、その後に関心があります。このプロジェクトでは今まで知り得なかった海外でのアプローチやデザインマネジメントを体感でき、とても貴重な経験をしています。毎回のミーティングではプロジェクトの話をしながらも、ヨーロッパ圏内や日本の文化の話で、大きく脱線するのも魅力のひとつです。ある意味、ローカルなこのプロジェクト。少しづつお伝えできればと思います。

いろはもみじ

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ぽつりと立つ、いろはもみじ。下にはベンチが置いてあって、色づいた頃、この木の下で読書をしたらさぞ心地よいだろうと楽しみにしていました。でも、ほんの一週間、足が遠のいたら散ってしまっていました。名残惜しさを感じつつ、せっかくなので腰をかけ、しばし思案にふけりました。足下にはまるで誰かが配置したように、いくつかの葉っぱが。無作為の成せる美しさに魅了されました。冬の気配に気持ちが高まり、秋の轍には気持ち引っ張られて。なんとも可笑しなものです。

“無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは何と粋な計らいをするのだろうと思う。一年に一度、名残り惜しく過ぎゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれない”星野道夫

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サカラメンタ提要

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12月になり、仕事中にたまにグレゴリオ聖歌を流す様になりました。1605年に長崎のコレジヨ(神学校)で刷られた日本初の楽譜及び2色印刷のキリシタン版「サカラメンタ提要」。キリスト教の典礼書で、中には19曲のグレゴリオ聖歌が印刷されています。四線譜は朱で、音符は四角くスミで刷られた美しいものです。

昨年の今頃、西海市教育委員会の依頼でルイス・フロイスが上陸した、横瀬浦港の開港450年の記念事業で西海市の小学生たちにキリシタン版や活字などの出張授業を行なってきました。あわせて加津佐図書館所蔵のグーテンベルク式活版機を使っての体験も行いました(版に使うイラストは妻が描きました)。ふるさとの文化を感じ、見識を広げることにつながればと。その際、私自身も西海市の小学生たちから贈り物を頂きました。前述の「サカラメンタ提要」。その合唱を聴かせて頂きました。とても無垢で美しさを感じたと同時に、1605年に刷られたものがこうして永い時を超えて蘇ったことに震えるほどの感動を覚え涙腺が緩みました。一度、消えたふるさとの宝を元に戻すのは並大抵のことではありません。合唱は見ることも出来ず触れることもできませんが、子どもたちの心に宿り、また次の子どもたちへと、ずっとつながってほしいと切に願います。こちらの西海市のサイトで聴くことができます。よろしかったら。

「西海に蘇るサカラメンタ提要」|http://www.city.saikai.nagasaki.jp/docs/2011030800643/

小舟の様な三日月が浮かぶ夜に

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12月6日、秘密保護法が可決されました。おそらく教科書に載るであろうその日の事を忘れない様に記しておきたいと思います。その他にも生活保護法改正案、生活困窮者自立支援法、武器輸出三原則見直し、原発を重要電源としたエネルギー計画の提出と、大きなことがこうも駆け足で決められていっては、受け止めることは勿論のこと、身体が全く追いつくことができません。これからのことを、これからの人たちを抜きにして決める事の歪さを感じながらも、決定した18歳以上の国民投票法改正は徴兵制への試金石とも思えなくもなくもあり、ただただ未来の子どもたちに申し訳なさが募るばかりです。

先日、秘密保護法のデモに妻と参加しました。秘密保護法には「戦争」が隠れています。急いでプラカードを作ったものの、まさか自分が天神の真ん中で「戦争反対」と叫ぶ日が来るとは夢にも思っていませんでした。ですが、それが現実のものとならないように最後まで抵抗するのが、今を生きるおとな達の責務のような気がします。デモ中、沿道から手を振りながら「ありがとうございます!がんばってください!」と言っていた高校生の男の子たちの為にも「次の子どもたちを戦場に送りたくはありません」ではなく「次の子どもたちを戦場に送るわけにはいかない」と語尾を強めます。自分は純然たる表現者ではありませんが、震災のときも自分がデザインに関わる意味を改めて深く考えました。今回も考えました。それはデザイナーを志したときから変わらず、クリエイションの根底にあるのは「平和」でした。平和と言葉にすると掴めないかもしれないけれど、それは朝の珈琲であったり、温かいスープであったり、犬のあくびであったり、家族や愛するひとたちとの時間だったりします。それらが誰しも分け隔てなく訪れることを日々、願っています。


夜空には小舟のような三日月が浮かんでいました。小舟は広大な海で大波に揺れながらも、灯台のように光る金星を目指しているようで何処かホっとしました。大きな風が来れば来るほど、それを力に変えれるような帆を張ろう。そして、次の人たちのためにも少しでも希望が持てるクリエイションをしよう。そんな想いを新たに。